江戸時代まで自分の先祖の情報を調べてみた

以前からあった自分のご先祖さまってどういう人たちだったんだろうかという素朴な感情と、大学で憲法民法(家族法)を学ぶにあたり沸き起こった自分の姓とはどういうものなんだろうかという疑問の2つを動機として、先祖の情報を調べることにした。

調べる方法としては、直系尊属の含まれる戸籍情報を請求していくだけ。

結論からいうと、江戸時代それも幕末の始まりとされる黒船来航よりさらに前を生きた人の情報まで得ることができた。

戸籍の情報の請求

請求できる対象

戸籍情報は、自分および自分の直系親族のものを閲覧するために請求できる*1

まず、自分がいる戸籍の謄本を取得する。戸籍謄本には、戸籍に記録されている各人の前に記録されていた戸籍、従前戸籍というもの記載されている*2。これが仮に自分の父親が筆頭者である戸籍であるとする。

次に、例えば父の従前戸籍である戸籍、つまり多くの場合祖父が筆頭者である戸籍を請求する。このとき、請求者である自分が祖父の直系の親族であることを証明する必要があるが、父が筆頭者である戸籍の謄本を提示すれば十分である。

次に、例えば祖父の従前戸籍である戸籍、つまり多くの場合は曽祖父が筆頭者である戸籍を請求する。このとき、請求者である自分が曽祖父の直系の親族であることを証明する必要があるが、父が筆頭者である戸籍の謄本と、祖父が筆頭者である戸籍の謄本を提示すれば十分である。

次に、例えば曽祖父の従前戸籍である戸籍、つまり多くの場合は高祖父が筆頭者である戸籍を請求する。このとき、請求者である自分が高祖父の直系の親族であることを証明する必要があるが、父が筆頭者である戸籍の謄本と、祖父が筆頭者である戸籍の謄本と、曽祖父が筆頭者である戸籍の謄本を提示すれば十分である。

このように、再帰的に、戸籍は請求可能。

上記の例では父の父の父といったように辿ったが、もちろん母の父の父…とか父の母の母…といったようにも辿れるし、だれが筆頭者であろうと、筆頭者でない者の従前戸籍を取ることもできる。つまり戸籍上、直系親族であれば誰でも取得できる。

戸籍上直系の親族であるというのは重要で、親しい間柄の親族と思っていてももその条件を満たせなければ取得はできない。例えば、親の再婚相手、いわゆる継父や継母は、直系の親族ではない*3。うちの母方の祖父母は、母が小学生の時に離婚しており、その後母が中学生の時に祖母が再婚している。母は祖母の再婚相手を自らの父のように接している*4が、母と祖母の再婚相手は直系の親族ではなく、もちろん自分と祖母の再婚相手も直系の親族という間柄ではない。自分は中学生くらいまでは毎年盆暮れ正月には母の実家に泊まりに行っており、その「祖母の再婚相手」には非常に可愛がってもらい、沢山様々なところに連れて行ってもらったり、夏休みの工作も手伝ってもらったり、いろいろな遊びを教えてもらったりした。中学卒業しても、実家を出て遠い所で暮らすようになっても、少なくとも年始には母の実家(祖母の家)を訪れてご飯を食べたり仲良くしていると思っているそんな大好きなおじいちゃんについて、戸籍を調べルーツを探してみることができないというのは、なんというか不思議な感覚である。

再帰的に請求可能とはいえるが、遡れる範囲に限りはある。明治19年式より前の戸籍は、身分について記載されていることから差別につながるとして、1968年から現在にかけて閲覧禁止とされている。したがって、明治19年以降も有効な(=戸主が生存している)戸籍についてのみ、現在は請求できる。

請求するモノの種類

戸籍は法改正により、都度「改製」されており、改製前の戸籍の情報を取得するにあたっては、戸籍謄本ではなく改製原戸籍*5を請求することとなる。また、昭和23年の改製前は、家制度の下の戸籍であったことから、「筆頭者」ではなく「戸主」が存在する。

戸籍謄本は一通450円、改製原戸籍は一通750円かかる。改製原戸籍のほうが高いのはどういうことかと当初思ったが、家制度のあった当時の戸籍は、今で言う世帯が何個も一つの戸籍に纏められており、非常にページ数が多く、戸籍謄本の何倍もの情報量がある場合もあり、手数料が高いことに関して納得せざるを得ない。

請求先

戸籍の請求先は、基本的には戸籍の存在する場所の自治体(地方公共団体)である。郵送についても、だいたいの自治体で受け付けており、ホームページに案内がある。さらに、今年(令和6年)3月からは広域交付というのができるようになった。近くの自治体の役所に行けば、日本全国の戸籍謄本、改製原戸籍が取得できる。戸籍の情報の電算化がすべて完了*6し、相互連携しているおかげである。

今回に関しては、住んでいる品川区の品川区役所が自宅から行くのにやや面倒くさい位置にあるということと、窓口にどういった検索のシステムがあるのかわからないけど一度古い改製原戸籍の広域交付をお願いしてみたら窓口でそれなりの時間待たされた*7ことから、今の所多くは郵送で各自治体に請求した*8。郵送での請求の場合は、郵便為替で手数料を送る。「おたくの自治体で遡れるだけ遡ってください!」と請求時にお手紙を書いておけば、「遡れるだけ遡ったらXXX円かかったから追加で郵便為替送ってね。あと紙が増えて重くなったから追加で返信用切手も送ってね。」と電話で連絡してもらえる。

自分の姓についてわかったこと

自分の今の姓、自分の父方の姓について着目し、家系図のような図を作ってみた。直系尊属のみ記載しているため、継母または継父の記載は省いた*9。養子については、その戸主から直接線を引いた。そうでない場合、父母が明らかな場合は、親の2人の間から線を引いた*10。姓に関係の薄い部分は省略している。自分の今の姓は「A」と置いている。

自分の今の姓Aを辿ると、自分の父の母の母の父の父の父、武左エ門さんまで辿れた。最後のところ(上図の一番上)については、自分の父の母の母の父の父が戸主である原戸籍が取れ、その戸主の従前戸籍の戸主の名前として知ることができた。父の母の母の父の父が嘉永5年(1852年)、黒船来航の前年の生まれということは、その親である武左エ門さんはそれより古い生まれということで、19世紀前半を生きた人だということ。大塩平八郎の乱が1837年、天保の改革が1841年とかで、そんな時代を生きたご先祖様だ。

父方の祖母と祖父は血縁関係があったみたいなことは両親からなんとなく聞いてはいたが、実際詳細を知ると感動がある。どういうことかというと、父の母の母の父の父と、父の父の父の父は同一人物であるということ。父方の祖父母は結婚時に妻の姓を名乗ることにしたというのは昔から知っていて、では父系を辿っていくとどんな姓になるんかなあと思っていたこともあるけど、一応父系を辿っても同じ姓になる様子。養子縁組がいろいろあってややこしいが。

家制度があったときまたはそれが文化として色濃く残っていたときは、家というものを存続させることを重要視して行動することも少なくなかったらしいとぼんやりと認識していたが、それがどういうことか少しだけ理解が深まった気がする。

簡単に家系図作ってみて分かったこと

先程の図の通り、家系図木構造になるとは限らず、すくなくともうちの場合は木構造にならないことが分かった。なんといっても閉路がある!木構造の説明のときに家系図で例えるのはもうやめよう!*11

その他ご先祖について分かったこと

戸籍には、姓や婚姻養子縁組といったイベントごとだけでなく、戸籍の所在地ももちろん記録されている。都市部の借家に住む人が多くなり、住民基本台帳*12がある今となっては、戸籍は現住所と全く関係ない所に置くことも多いが、かつては住所と戸籍を揃えることが多かった。従って、ご先祖様の地理的なルーツを調べることができる。

父方の、そのA姓に関しては、東海地方が元々の出自のようだった。東海地方内で、県内や隣接県の人々と血を交わしていった後、父の母の母の父が東京に引っ越した様子。具体的事実が正確に知れてよかったが、その理由は気になる。

母方のほうも戸籍は探った。母の血縁上の父については、先祖代々ずっと辿れる限り、つまり遅くとも江戸時代後期から、近畿圏のとある都市部に住み続けていた家系だということがわかった。その祖父について前述の理由からもちろん自分は面識がないし母も両親(自分視点では祖父母)の離婚以来会ったこと無いらしいが、戸籍辿ったことについて母に話してみたら、母が幼い頃に父やその親戚から聞いた話、先祖がどういう職業だったとか、親戚にどんな人がいたとかを教えてくれて面白かった。

母の母(祖母)については、熊本県内のかなりの田舎の出で、これも辿れる限り先祖代々ずっとそうっぽかった。Googleマップの航空写真やストリートビューで見る限りもうすっごいのどかなところだった。百姓の家だったと母が言っていて、これはたぶん100%正しいと思う。実際そっちのご先祖様がどういった人たちだったのか、どんな生活を送っていたのか、より詳しく知りたくはあるが、母方の祖母は、現状かなり認知症が進んでしまっていて、もう何もわからない。熊本のほうに行く機会がもし今後あったら、レンタカーを借りてそのあたりを散策して、ご先祖様の暮らしていた土地の雰囲気だけでも知ってみたいと思った。

いろいろ知ってみて

父方の祖母が、東京大空襲で母と妹2人(自分視点では曽祖母と大叔母2人)の3人を失ったというのは昔から教えてもらっていた。その上で、原戸籍に3人分つまり3回書いてある「昭和弐拾年参月拾日 時不詳 (中略) 死亡」という文字列を直接見たとき、非常に痛ましい気持ちにになった。深川區役所は翌月24日に届け出を受け付けたこと、自分視点では高祖父にあたる人が届け出を行ったことも記載されていた。一面焼け野原の状態から1ヶ月で業務を再開していた役所の方々すごいという感想もありつつ、高祖父はどんな気持ちで自らの娘と孫の死亡届を出したんだろうかと考えてしまった。

そういえば祖母はたまに東京に行って、どこかに慰霊に行っていたなということを、お盆に思い出した。いま自分は東京に住んでいることだし、行くことにした。

確認のため、祖母に架電した。両国にある東京都慰霊堂に行けば良いと教えてもらえた。

東京都慰霊堂は、関東大震災の慰霊のために建てられた建物ではあるが、そのまま東京大空襲の慰霊にも使われている。東京大空襲での10万を超える遺体の数々は、混乱の中、一度各地の寺社や公園に一度仮埋葬された後、東京都慰霊堂に全て集めて正式に埋葬されたらしい。つまり、自分の曽祖母と大叔母たちの遺骨がおそらくそこに眠っているはずであるということ*13

慰霊堂の中には、ご自由にお取りください方式でお線香が置かれてあったから、それを使わせてもらって、手を合わせた。お賽銭箱のようなものが置かれていたので、幾らか入れておいた。

東京都慰霊堂のある横網町公園には、東京都復興記念館という資料館もあった。中には、関東大震災東京大空襲に関する展示があった。凄惨な資料もあった。ただの歴史の1ページとしてではなく、以前の自分よりも当事者性を持って対峙し受け止め考えることができたと思う。

横網町公園にある「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」。中には犠牲者の名簿が納められており、そこに曽祖母と大叔母の名前が刻まれているらしい(祖母談)。

その後

おそらくお盆に電話をかけたことがきっかけで、父方の祖母から、家のルーツをについてまとめて書かれた手紙が届いた。また、祖母は趣味で詩を書いたりしているのだが、自分の幼少期について書いたものが載っている同人誌が同封されていた。自分がいま戸籍やらいろいろ調べていることを祖母には特に伝えたりしていなかったのに、本当に有り難い。

出自について、なぜだれがどう養子になって、なぜどこに引っ越して、だれがどこの家に嫁いでいって、非嫡出子*14がいてといったような事が書かれてあった。

戸籍にある情報とは合致しているし、なぜそうなったのか気になっていた所が解消されたりして、答え合わせみたいな感じで、当時の様々な人間模様を想像できて興味深かった。

きちんとした家系図を作って印刷して、正月父の実家に挨拶行くときにでも持っていって、祖母にさらにいろいろ聞いてみようと思う。

皆様も、夏休みの自由研究に祖先の戸籍を見てみるのは如何でしょうか。

*1:加えて、士業の職務上請求がある他、士業で無くとも要件が揃えば正当な権利行使のために第三者が取得することもできる。実はこれもやってみたことあって結構簡単だった。

*2:出生時にその戸籍に記録された者を除く

*3:相続等を目的として養子縁組を結んだ場合を除く。

*4:少なくとも自分にはそう見えている。

*5:「かいせいはらこせき」と読む。

*6:ちなみに、日本の政令指定都市の中でこの電算化が一番遅かったのは京都市らしい。

*7:本当にどういうデータベース設計でどんなインデックスがあるのか気になっている。戸籍の所在地と、筆頭者または戸主の名前という2つの情報のみで取得が可能ではあるが、それぞれ表記ゆれ激しそうで、どうしているんだろうか…。

*8:郵送での広域交付はできない。戸籍の存在する自治体に郵送で交付を請求する必要がある。

*9:この父方の姓の家に限らず、昔の戸籍を眺めていると、奥さんが亡くなって再婚という事象が非常に多かった。

*10:このほうが現代の家族観にふさわしいと思う。

*11:これは冗談で、木構造というか木の概念の説明の時に家系図を出すことはわかりやすいと思う。また、うちの家系に限らず、狭い島国に暮らす我々日本人の多くはたった数世紀辿れば大体閉路は見つかると思っているし、そもそも全人類は一人の女性「ミトコンドリア・イブ」に繋がるのである。

*12:住民基本台帳法は1967年施行

*13:父方の家のお墓は、東京から神戸に移転済であり、そこに曽祖母と大叔母の骨はないが名前は刻まれ供養されている。近畿に引っ越したらそのお墓にちゃんと手を合わせに行こうと思った。

*14:1942年の民法改正で、「私生児」から「非嫡出子」という呼び方に変わった。家族法の授業の先生によると、当時出征先で亡くなった軍人の隠し子が発覚する事例が多く、そういった戦死者つまり「英霊」の子を「私生児」などと呼ぶのは如何なものかということで呼称が変わったらしい。面白い。